基本方針と未来への展望
以下に述べるのは、ここでわれわれがどのような評価基準を採用しており、またどのような戦略をとっていくかについての基本方針である。その大略については別の場所でも述べたが、ここでは少し突っ込んだ形でそれをあらためて詳しく述べることにする。
1.ここでの新しい評価基準とその理由
この作業の意義
まずここでのテーマは「対角化解法による微分方程式の世界の統一地図の作成」という名前がつけられているが、それについてあらためて述べよう。
それは基本的に、従来知られている普通の線形微分方程式が作用マトリックスでどう表現され、そして対角化解法がどのような形になるのかを、すべての場合について皆で手分けして調べることである。
学問としての解析学の観点からすると、線形系に関してはすでにほとんどあらゆることがやり尽くされており、そもそも在来型の手法でそれらの解法が知られている以上、これだけなら何ら新味はない。しかし作用マトリックスの威力は、線形の問題にスイッチ演算子を組み込むだけで、一挙に非線形系に拡張できるという点である。
従来、非線形方程式に関しては決定版となるツールがなく、それゆえそこは一種の暗黒領域だったわけだが、作用マトリックスの場合、ひとたび線形系の表現法をきちんと整備してしまえば、後はほんの一歩足を踏み出すだけで、事実上微分方程式の世界のすべてを明らかにできる。
そういった意味で、これはまさに微分方程式の世界の「統一地図」を作り上げることに相当していると言えるわけである。
ここでのチェック基準
そしてここに掲載されるものは、原則的にすべてこちらのレフェリーによるチェックが入る。ただしここでは以下に理由を詳しく述べるように、通常の数学論文の場合のレフェリーの査読と異なり、「数学的に誤りがないかどうか」のみをチェックし、「過去に同じ仕事がやられていたか」に関してのチェックは基本的には当面行なわないこととする。
現在の普通の論文の世界では、過去にとにかく外見上同じパターンを誰かがやってしまっていれば、運用思想の違いによってどんな大きな意義が生まれていようと、それは「オリジナルでない」ことになって論文として掲載されることはまずない。
しかしここでの最優先となる評価基準は「思考経済」であり、それを大きくプラスにするような業績であれば、過去に外見上は同じパターンがあったとしても、われわれはそれを「オリジナルな仕事」として評価する。
そして「統一地図」が完成してその価値が周囲に疑問の余地なく認知された場合、その時点でその業績は遡って正式に論文と等しい価値を持つものとして評価されるよう、パスファインダー・チーム全体で努力を行なう予定である。
現在の論文評価基準の問題点
これは、現在の論文の世界の現実が如何なるものかを知る人にとって夢のような話であろう。
現在の一般の論文においては、その最大の価値基準は「something new」という点に置かれている。つまり過去に行なわれていない結果を出したかどうかが最大の基準であり、それゆえ一般の論文書きでは過去に同じパターンがやられていなかったかどうかに関する膨大なチェックの作業が最優先事項となる。
そのため現在、「載る」論文を書くには、むしろその作業が労力の大半を占め、そのチェックが自力でできるようになるまでに8年から10年はかかる。その挙げ句、少なくともその基準からする限り「オリジナル」な仕事などこの世に残っていないことを見出すだけで、それをやっているうちにほとんどの者が覇気を失って精神的に抜け殻になりやすいのである。
思考経済の原則
しかしわれわれの場合、「思考経済」の観点を最大基準としてそれより上に置き、「something new」の原則は第二優先事項としてのみそれを残すという方針をとる。
それというのも、現在では世界全体が百年前とは根本的に異なり、「情報量の激増と飽和」という事態に直面し、それに対応するためにこの新しい方針が未来の趨勢になると考えているためである。
そのため現時点でこれに取り組む際には、今や拷問と化した過去の膨大な業績チェックに当面煩わされることなく、一応の成果をここに発表することができ、しかも今のうちに掲載しておけば、それが将来、論文として正式に勘定され直して数学の歴史の1ページに残るという可能性が存在しているわけである。
しかしそれは将来を見据えて不可欠な措置と考えられるのであり、これは成功すれば現在の学会の評価基準にも一石を投じることになるはずである。そのため以下に、少々長くなるがその状況を詳しく述べてみよう。
情報飽和の時代の「オリジナル」とは何か
そもそもこの「情報量の飽和」という問題は、数学などの科学に携わるすべての人間が密かに怯えていることではあるまいか。現実問題、数学においては原理的にすべての基本パターンが出尽くしてしまえば、もうオリジナルな仕事のやりようがなく、その時にはもはや数学者の役割は過去の伝承のみで、創造力は不要と宣言される時がいつかはやってくる理屈なのである。
ところがこの一見絶望的な問題は、実は他の分野が思いがけない形で過去に経験しており、しかもそれなりにちゃんと切り抜けてきているのである。
その「他の分野」とは兵学の世界の話であり、この世界では戦略戦術の基本パターンというものは、ある意味で中世以前の段階でほぼ出尽くしてしまっていた。ところがそれならそれ以後、独創的戦略家というものが絶滅してしまったかと言えば、全然そういうことにはならなかったのである。
例えばナポレオンといえども、厳しい評者に言わせればその戦法はどれも何らかの形で過去の戦法の焼き直しで、真の意味での「新戦法」というものはそこにはなかったとも言われる。しかしそれにもかかわらず、彼が最高の独創的戦略家であったことを否定する人は誰もいない。
それというのもこのあたりから、兵学における真の独創性は「新戦法を編み出す」ことよりも、むしろ「平凡な戦法で独創的に勝つ」ことの中にあるということが認識されるようになったからであり、ある意味でオリジナリティの基準が変わったのである。
「単純平凡な戦法で独創的に勝つ」
これは現在の窒息しかけた数学にとって実に示唆するところの大きな事実ではあるまいか。ただそのためにはやはりこの場合にも「何がオリジナルなのか」の基準をずらすことが必要になってくる。
つまり何度も言うように現在の数学の論文では、「オリジナル」とは、数式を変形して何らかの結果を出すという、その数式のパターンが新しいものである場合にのみ、それはオリジナルな仕事であるとの評価が下される。(先ほどの話だと、これは「新戦法のパターンを作り出す」ことに相当する。)
ところが現実には、今や単純なパターンのものであれば過去にほとんどやり尽くされており、そこでは点数になるような「新しいパターン」を見つけることはほぼ不可能となっている。
そのため苦しまぎれに何をするかといえば、研究者たちは思考経済がマイナスになることを承知の上で複雑化の度をどんどん上げて、あまり意味のない「新パターン」を無理矢理作り上げる道に走ってしまい、思考経済の面からは明らかに皆で寄ってたかって学問を退歩させているという、どうしようもない現実がここにあるのである。
しかし現場の問題として見てみると、数学も兵学に似て、パターンとしては一見ありきたりのものを新しい思想で用いることで、大きな可能性が開ける場合がある。
つまりこちらは「単純平凡な戦法で独創的に勝つ」ことに相当しており、世の中が数学に求めるものも本来こちらにあるはずであろう。そのため今後はむしろ、こちらを「オリジナル」として優位に置くという姿勢が必要になってくると見られるわけである。
作用マトリックスの場合のこの問題
そして作用マトリックスの場合を見てみると、これはまさにこの「単純平凡なパターンで独創的に勝つ」ことの側において威力があることは言うまでもない。
ところがこうしてみると、仮に作用マトリックスや対角化解法でどのような独創的成果が上がったとしても、それを思想から切り離して単なるパーツにばらした場合、個々のパーツについては、探せば必ず過去に外見上は同じようなものが見つかるものと思った方が良い。
何しろ200年間、解析学の世界で数学者たちが袋小路の中でああでもない、こうでもないと必死であがいてきただけに、ちょうど水がどんな隙間も見つけて流れ込むようにして、あらゆるパターンが試されていると考えねばならないのである。つまり現在の基準からする限り「オリジナル」なことはすべて過去の数学者がやってしまっていて、こちらの側にはその余地が残っていないことになる。
ところが過去にそのパターンが「発見」された時の状況がどうだったかと言えば、実はネタ切れに困った数学者が、単に自分の手持ちのツールを使ってあてずっぽうにそれをこねくり回し、「やってみたらこうなった」ということで、さほどの意味もないまま活字にしておいたに過ぎないという場合が、意外に多いのである。
そういう場合にはむしろ、その既知のパターンを独創的な思想で使ったことで、はじめてそれは手法としての生命を得たことになり、どう考えても「オリジナル」はこちらの側にあるはずであろう。
この場合の「オリジナル」の基準
そこでわれわれとしては将来、評価基準が変わることを見越して、過去に外見上同じパターンがあったか否かということ自体は「オリジナル」の絶対的な基準ではないとの姿勢で臨む。
特に対角化解法の場合、何よりも重視されるべきことは「微分方程式を解く=作用マトリックスの対角化」というその「思想」であり、たとえ過去に外見上同一の数学的パターンが存在していたとしても、その思想が抜けている場合、それは(先ほどの「当てずっぽう」のケースに相当する可能性が五分五分以上であるため)当面、基本的に別物であると見なしておく。
なお、そのように数式パターンよりも思想に対して「オリジナル」を認めるというのは、物理学の方面では割合に古くからの常識で、例えば特殊相対論のアインシュタイン論文の場合、それはその哲学的内容ゆえにオリジナリティを認められているのであって、数式のパターンだけをとってみると何ら新味のあるものではなかったのである。
数学の場合には思想などという不純物を抜きに、純粋に数学論理だけを無制限に積み重ねていけると考えられていたため、物理学と違ってそういう基準は採用されなかったのだが、今にして思えばその神話自体が、多分にハーモニック・コスモスを想定したものだったのであり、それを考えるとどうやらこれも一つの曲がり角に来ているようである。
妥協案としての「棚上げ」措置
しかし何しろ論文の評価基準というものは世界的な慣行である以上、それが変わるまでは長い時間がかかるのは当然だろう。そのためわれわれとしては一種の妥協案として、何が数学的に「オリジナル」なのかの問題や評価は、双方が公式には当面「棚上げ」にしておく措置をとることとする。
そしてわれわれが統一地図を完成させてその意義が明らかになり、オリジナルとは何だったのかについての議論があらためて行なわれた時点で、個々の仕事の評価は外の基準と接続されることになる。
つまりわれわれが現時点で「過去に外見上同じ数学的パターンがあったのか」についてチェックを行なわないのは、その基準を完全否定するのではなく、その時まで評価を双方が棚上げにしておくための措置であると考えていただきたい。
実際そうしないと、出発点付近で挑戦者の前に制度的にも精神的にも超えがたい壁が立ち塞がってしまって、動き出すこと自体が最初からできないのである。
それがないことによる堂々巡り
実のところこれに関しては多くの心ある数学者が内心では改善の必要を感じており、また数学に限らず現在は、新しい学問を作ることが世の中で切実に求められている。
しかし現実問題として見ると、それを評価する側としては、あまりに海のものとも山のものともつかない未完成のものを見せられて、これを学問として認可せよと言われても困惑する他なく、とにかくある程度まとまった結果を出してくれてからでなければ、判断のしようがないと主張せざるを得まい。
ところが挑戦者側の言い分からすれば、現代では新しい学問を作るとなれば、昔よりクリアすべき情報量が多いので、まとまった結果が出るには10年や20年はかかる。ところがその間は学問としての論文の掲載は認められず、点にならないどころかそもそもどこにも発表できないというのでは、現実問題として取組みようがないと主張する。
こうしてみると、どちらの主張も一面ではもっともなのだが、しかしこれでは一種の堂々巡りに陥って、どちらからも物事が動き出せないことになる。そしてこの場合、要するに途中に中間レベルのチェックポイントが設けられていないことが問題なのである。
これは「何がオリジナルなのか」についての判定についても同様のことが言えて、もしパーツごとの評価ではなく、全体的な思想の流れの中で評価を行なうことが必要になった場合、やはり結果をある程度出してその思想的意味が明らかになった後でない限り、評価そのものが不可能ということになってしまう。
それゆえここで試みているように、従来の評価基準に拘束されることなく、こちらが設定した目標に沿うものであれば、一応の暫定的な評価を行なった上でインターネット上に掲載して、ある程度の集団作業を可能にし、成果を完全に周囲に示せるようになった時点で、遡って一斉に正式に点数として勘定されるようにするという方法は、恐らく将来の趨勢であろう。
思考経済に逆らって勝った者はない
もっとも、そういう評価の問題も、将来学問の世界全体が思考経済の原理を優位に置く方向に向かってくれなければ元も子もない理屈なのだが、しかし永い目で見た場合、それは確信して良いことだろう。なぜなら歴史上、思考経済の原則に逆らって最終的に勝てた者は誰もいないからである。
実際、ある学問が末期症状を迎えて複雑化が限界に達し、何をやっても思考経済がマイナスにしかならなくなった時、その後の結末は必ず次の三つのうちのどれかを迎えてきた。すなわち
1・その学問の世界内部で、思考経済の原則に従って改革を断行し、贅肉を容赦なく削ぎ落して新しい単純化されたものに作り替えるか、
2・その種の改革は行われず、思考経済をマイナスにするだけの無意味な論文は地下の図書館で生まれ続けるが、やがてそこを訪ねる者が誰もいなくなって扉は外から埋められ、外の世界がそれらを忘れた後に、その上に一から新しい学問が建てられるか、
3・やはり改革は行なわれないが、それでもその学問は権威として社会に居座り続けて外の世界はそれと縁を切ることができず、結局その社会自体がそれと心中するか、
のいずれかの結末しかあり得なかったのであり、現在の数学の各分野も、いずれこの3つのうちのどれかを選択せざるを得ないはずである。
方針に関するまとめ
では以上の方針をまとめておこう。
・まず投稿をされる場合には基本的に思考経済の面だけに留意すればよく、過去に外見上同じパターンが存在していたかどうかをチェックすることは、今の段階では必要ない。(ただし逆に思考経済の面での要求はむしろ通常の論文よりも厳しいが。)
そしてたとえ同じパターンが過去にあった場合でも、新しい思想で独創的な効果を期待でき、思考経済をプラスにしていた場合は、われわれはそれを「オリジナルな業績」として評価する。(それに対する批判に関しては、パスファインダー・チームが盾となる。)
ただし基本的に周囲にその基準を認めさせることは、あくまでも「統一地図」が完成してその意義が明らかになった後のことであり、それ以前の段階で無理やりこれを論文一本として認めるよう周囲に迫ることは自粛されたい。
・チェックを行なう「レフェリー」はパスファインダー・チームのメンバーがローテーションで担当するが、長沼のものに関してのみは、立場的に内部だけでのチェックを入れにくいため、外の大学で助教授以上の地位にあって、以上の趣旨に賛同する人物がチェックを入れることとし、一応全部に対して漏れなくチェックを入れる。
ただし当初はこちらの受入れ能力に限界があるので、こちらが指定した題材のもののみを受け付ける。
・また将来これらを演習書としてまとめる場合、投稿者の氏名は可能な限りその巻末に記載する。ただし出版に関する著作権に関しては原則としてオープンとし、演習書の出版などに際しては、その著作権はそれを本としてまとめる労をとった者に所属する。
・なお統一地図作りがスタートしてそれがある程度軌道に乗ったならば、過去の文献の中に存在した、外見上類似のパターンとの比較も「それらが思想的にどこが違っていたのか」という視点を中心にして、徐々に始めていくと良いだろう。
それというのも、過去にそれが「発見」されていたにもかかわらず、大したことができなかったということは、要するに運用思想の面で根本的な隔たりが必ず存在していたはずだということであり、そのあたりの比較検証は、いずれ保守派との議論の中で必要になると考えられるからである。
それゆえその検証作業は、あるアイデアが掲載された後すぐにではなく、むしろその意義がある程度明らかになった後に、しばらく時間を置いて取組み始める方が望ましいと言えるだろう。
以上がわれわれの基本方針である。対角化解法の中には、やってみると意外に骨の折れる作業も少なくないとは思うが、しかしもし将来それが論文に換算される場合があるということになれば、むしろ労力に比して非常に得な仕事だということになるだろう。そう考えて是非積極的にチャレンジされたい。
2・未来への展望−−戦略と意義
そしてここで、遠い将来のことを視野に入れて、単に数学内部の話に留まらず、外の世界への影響とそれを踏まえた戦略面などについて、少しばかりスケールの大きな話をしておこう。
あるいはこのような話は、これまで自然科学と工学の中だけしか見て来なかった方には少々面食らうものかもしれないが、それらはいずれ現実の問題としてわれわれ自身が直面するであろうと考えられるものである。
隠された一つの大きな歴史的意義
まず、この作用マトリックスの数学的詳細および対角化解法が、現代の世界において及ぼすであろう最も大きな影響について述べておこう。それは、以前にもいろいろな場所で述べたが、イスラム文明に対するインパクトである。
このことに関しては以前にも幾度か触れたので少々繰り返しになるが、近代までの数学は、基本的に解析学と代数学の二本の流れによって構成されていた。そしてその成長過程においては、主として西欧キリスト教文明が前者を育て、イスラム文明が後者を育ててきたといってよい。
そしてそれらの特性はそれぞれの社会に影響を与え、前者がハーモニック・コスモス信仰の深い影響を受けているのに対し、後者は基本的に非ハーモニック系を想定して設計されている。
そのようになまじイスラム文明は物事を一面において正しく認識していたため、かえって近代化に乗り遅れてしまった。だが彼らはそれを表現する数学を知らなかったため、自分の文明と近代テクノロジーを調和させることがどうしてもできず、それが彼らの歴史の停滞を招いているのである。
そう考えると、ここで行なわれていることがイスラム圏に運び込まれた場合の衝撃力は想像に難くない。そしてこの場合、それが欧米でなく日本において行なわれているということが、さらにそれを倍加することになると考えられる。それというのも、このことは文明史の見方に一つの大きな転換を迫るからである。
つまり米国を頂点とするハーモニック・コスモス信仰型社会は、確かに人類が使える物理的なエネルギー量を飛躍的に増大させるという点で最も進んだ文明形態であり、この観点からすれば明らかにイスラムは後進文明である。
しかし非ハーモニック系を想定したイスラム社会は、縮退やコラプサー化を防ぐという観点からすればむしろ極めて高度に発達した文明なのであり、逆にこの点からすれば米国社会の側こそ一種の迷信にどっぷり浸かった後進文明なのである。
しかし米国の主流派がそんな大胆な発想の転換を受け入れるとは到底考えられず、特にイスラム文明について自由に論じることに関しては、2001年のいわゆる9・11以降、学会に対する無言の締め付けも強くなっていると思われる。ところがこの基本的な文明観の転換がない限り、作用マトリックス理論は秘めたるその最大の力を発揮しにくい。
つまり現時点でそれを育てる候補地を絞り込んでいくと、まさに日本こそ最良の場所なのである。そのためこれからは米国に価値判断を委ねるという従来の姿勢を脱し、むしろ日本自身が天秤の支点として両文明の勢力均衡を図る役割を負っているとの自覚が必要であろう。
そうなってくると極端なことを言えば、これらを論文として欧米の学術誌に載せるよりも、むしろこれを教科書・演習書の形にしてイスラム世界に浸透させた方が、文明世界全体を大きく動かすことになるかもしれないとさえ言えなくもないのである。(なおその場合、直接中東に向かうよりも、むしろまずマレーシアなどのアジアのイスラム諸国を経由し、そこを中継地とするインド洋ルートをとる方が安全かもしれない。)
少なくともその場合、われわれは従来と異なって二つの戦略的オプションをもつことになり、そしてある意味で一方を達成できれば十分に「勝ち」なのだから、従来のように欧米での評価のみに目的を拘束される必要はなく、もっと柔軟な戦略をもって臨むことが可能となるわけである。
「知的制海権」の問題
しかしこのように二つの文明を巻き込んでの社会的影響が予想されるとなると、われわれ自身が知的制海権の争奪戦の中に入り込むのはいずれにせよ避けられまい。まあもともとわれわれ自身が「学問の力というものは海軍力の要領で使った時に最大の力を発揮する」ということを共通認識としている以上、それは何ら避けるべきことではない。(なお「知的制海権」とは「無形化世界の力学と戦略」の用語であるが、同書をお読みでない方もその意味は文脈から十分想像できることと思う。)
実際、パワーの無形化が進行する現代世界では、それは単なる学問の中の話では到底収まらなくなる宿命を負っている。それというのも現代の国際社会では、物理的な軍事力は他国に意志を強要する手段としてはあまり有効ではなくなっており、それに替わって、物事の価値判断基準やルールを定める「知的制海権」というものが、国が独立した意志をもつための決定的要素となっているからである。
ところがそういう状況で前記のようなことが起こるとすればどうなるだろうか。つまり現代の世界では知的制海権は基本的に米国が握っており、それが彼らの世界支配の強力な武器となっているが、実はそのかなりの部分がハーモニック・コスモス信仰の上に浮かんでいる。
ところがここでわれわれが作用マトリックスのもつ思想的意味を明るみに出してしまうことは、それだけでそこに致命的な亀裂を生じさせることになりかねず、それはまさしく彼らの現在の知的制海権への挑戦に他ならない。
そのため米国がそんなことをあっさり許すとはちょっと考えられず、いずれどこかで彼らの支配権やその意志と衝突することは避けられないものと覚悟する必要があろう。
その際予想される米国側の戦略
そしてその際に米国側がどのような方針でそれを押さえ込もうとするかを予想すると、
1・作用マトリックスの概念をなるたけ単なる一個の数学的技法の問題に矮小化し、その背後の思想的部分はなるたけ薄めていくか、
2・あるいはたとえその思想的意味の浸透を止められない場合でも、その解釈を行なう最高権威は必ず米国内に置いてその解釈権を独占し、それを上回る勢力が他国に生まれることを阻止する。
3・その際には宣伝力=情報制空権の力をフルに活用し、例えば落ち目のサンタフェ研などにもう一度外からテコ入れして(場合によってはハリウッドまで動員して)、大衆の目にはあたかもそれが最強の中心勢力に見えるようにし、むしろ情報制空権を主力にして知的制海権を維持する。
というあたりの線になると予測される。特に彼らがその戦略的な重要性に気付いた場合、投入してくる力の総量はわれわれの現在の普通の想像を一桁上回るものとなろう。
例えば「3」の場合の具体策を予想すると、まず実態や他国の業績がどうあれ、米政府がそれをあたかも自国の研究機関が主役だったかのように発言して、その素晴らしさを宣伝した場合、何も知らない新聞記者はその発言内容をあたかも人類社会の公式見解のようにそのまま掲載してしまうだろう。さらにハリウッドが何度か格好の良い小道具として映画に登場させれば、それは大衆レベルにも浸透するはずである。
そしてそうなってくると、それ自体が宣伝効果をもつので、一時的にせよ政府や企業の金がどこかで動き、そして(情けないことに)金が動けば論文本数が増え、研究者たちは自分の論文が載りやすくするために、こぞってリファレンス欄に米国の論文を引用することになる。
このように、米政府の意志によって一時的にであればほぼ確実に一種のバブル状態を演出でき、その幻惑効果によってどこの国の誰の業績でも、それをあたかも米国の業績のように周囲に錯覚させることができる。そして仕上げに、他国にいるキーマンを高額のサラリーや地位で一本釣りして米国に集めてしまえばよい。
そうすれば自然に米国以外の研究機関は痩せて力を失うことになる。これこそがまさに、「情報制空権を用いて知的制海権を掌握する」という構図の典型例であり、これが現代世界の現実である。
これが他の学問の場合であるならば、その中心地が米国にあるか日本にあるかは、傍から見ればそれでも大した問題ではなく、巨視的に見ればいわば単なる国の間の私闘に過ぎない。しかしこの場合に限っては、それは結末に重大な影響を及ぼすことになる。
つまり以上に見てきたように、恐らく作用マトリックス理論は米国の主導権のもとでは健全な形では育たず、いわば去勢されて歪んだ姿に換えられて、文明世界に広められてしまうものと考えられるからである。
そしてこの場合、誰かが米国に入り込んで中から物事を変えるという選択もないではないのだが、しかし現実問題として考えると、日本人が彼らの中に入って単独でそれを行なうことは不可能に近く、少なくとも外からの強力な支援がない限り、結局米国内で孤立無援に陥るのは確実であろう。
そのためいずれにせよ、日本国内に独立した勢力を築いておくことが必要になってくるわけである。
それに対するわれわれの側の対抗戦略
ではその場合われわれがどのような対応策をとるべきかであるが、前記の三点それぞれについて見てみると、
・まず「1」については、基本的な見方として一種の歴史観、すなわち「歴史的に数学の二本の柱を西欧とイスラムが分担して育て、それが両者の社会設計を支配してきた」という見解を前面に出す。そして作用マトリックスをその統合の最大の鍵と位置付け、問題全体を理系の外に拡大して、単なる技法の問題に矮小化されることを阻止する。
・次に「2」については、もし米国が解釈権を独占しようと図った場合、それはフランスなどをはじめとするヨーロッパ勢にとっても脅威となる可能性が高いため、なるたけそれらとの協調を図る。無論、イスラム・カードは米側が全く想像していなかった強力な武器であろうから、最大限、慎重かつ有効に活用すべきである。
また、米国の主導権への従属を避けるためには、従来の複雑系に吸収合併されることは極力回避せねばならない。そのためには、むしろサンタフェ研などを積極的に対立相手に設定して、どこが違うかをはっきりアピールすることが必要である。
具体的には、「人類文明と三体問題」ということをこちらの旗印にして、そもそも複雑系などはサンタフェ研が宣伝するような「コンピューターの発達に刺激されて最近誕生した新しい学問」ではないということなどを中心に、対立軸を設定すると良い。
さらに、「結局は芯の部分でハーモニック・コスモス信仰を捨て切れなかったことが、同研究所の失敗要因だった」ということ(それは紛れもない事実である)を、「複雑系が駄目だった理由の総括」という形で、ちゃんと世の中に伝えることも必要であろう。
大衆はともかく、多少なりとも物のわかった人の中には、もう複雑系=見掛け倒しのまがい物という図式が染み着いてしまった以上、このさい思い切って「古い皮袋」を焼き捨てる形で再出発を図ることは、複雑系自身にとっても望ましいことである。
・次に「3」について。学会内部の世界から見ていると、サンタフェ研などはもう戦力としての有効性を失っており、何ら脅威ではなくなったと見えがちであるが、実は情報制空権のためのいわば「洋上プラットフォーム」としてはまだ浮いていて、その意味ではなお健在である。
そして一般にプラットフォームというものは、浮いている限りは外から搭載装備を更新することで再び強力な存在として甦る可能性があり、たとえ現在は戦力を失っていても、必ず沈めておくか、捕獲するか、あるいは少なくとも最低限、プラットフォームとしての再使用が不可能なまでに止めを刺しておく必要がある。そのためこの場合も、必ずしもその潜在的脅威を過小評価してはならない。
ただし逆に相手側の立場からすると、そのように情報制空権の大きな拠点を作ってしまった場合、そこが打撃を受けて火だるまになったりすると、一挙に広い範囲の知的制海権を失う危険があり、こちらにとっては二重の意味で優先攻撃目標である。
一般に相手側が圧倒的な情報制空権に依存している場合、直接正面から立ち向かっても勝ち目は無いが、むしろそれを逆手にとって明確な対立軸のもとにこちらが対戦の構図を設定し、その対戦自体を多くの人がエキサイティングに観戦できるようにしていけば、五分五分に持ち込むことが可能である。(なお、もし米国勢がハリウッドを支援戦力として投入してくる場合、こちらとしては事実上「無形化戦略の可視化」がそれに対抗する唯一の航空戦力となろう。)
このように学問の世界もただ正しいだけでは駄目で、「華」がなければ結局勝てないのであり、従来日本人が理解・実行してこなかったのは、まさにその点である。とにかく米国を相手にする場合、そのような大きなスケールの戦略は不可欠であろう。
日本にとってのその挑戦の意味
ともあれそういうわけで「知的制海権の争奪戦」という状況はいずれ避けては通れないものと見られるわけだが、それはこれまで米国からの(知的)独立を避けてきた日本にとって、今まで経験したことのない未知の挑戦である。
そもそもこれまで日本は真の意味での独立国ではないとしばしば言われてきたが、それも突き詰めて言えば結局日本が知的制海権をもたないことに起因する。言葉を換えれば、知的制海権をもたない国に独立はなく、そのような国にとっては知的制海権をとることすなわち「独立の達成」であるというのが、新しい世界の常識なのである。
こうしてみると、日本でこれを行なうことは、他国で行なわれる場合とでは少々違った意味を秘めていることがわかる。つまり現在の日本は、大きな経済力と高い教育水準をもちながら、国際社会での発言力は低開発国並みという点で、極めて稀な存在である。
それゆえそのような特異な国(半独立国)にとってはこの挑戦は、無形化された現代世界の中に置いて新しい歴史的常識から眺めるとき、意識するしないにかかわらず必然的に、一種の「独立戦争」としての色彩を濃厚に帯びてくることになろう。
実際その構図からする限り、これが戦略上の最大の鍵であることは間違いないのであり、そして知的制海権を争うとなれば、何と言っても数学をバックにした思想の存在は最強の武器となるはずなのである。
あるいは諸氏は今までそういうことを思ったことはないかもしれないが、どうもこうして見て来ると、この時代にこの日本という国に生きる者にとって、数学がわかる能力をもって生まれていることは、ちょうど昔の動乱の時代に剣の心得をもって生まれているのに似た幸運だったのではあるまいか。
つまりもしこの国が、これから知的制海権をとって真の意味で独立を達成することを行なうとするならば、歴史がその要員としてまず招集をかけに来るのはその資格者に対してだからである。
そしてもし前進の途中で米国の知的世界の支配力の壁に遭遇して苦闘することがあったならば、この観点からすると、それは少なくともその戦術目標のどれかに接触して、その付近で何らかの行動をとっていることを意味しているのであり、その困難に挫けそうになった時は、このことを思い出して力としていただきたい。
数学科の安易な統廃合は待て
なおこれに伴って一つつけ加えておかねばならないが、最近では日本ではいろいろな大学で数学科の存在意義に疑問符がつけられ、工学系の情報学科などに吸収されたりするなどの形で統廃合の対象となって、いわば数学科自体が存続の危機にある。
しかし以上のことを考えると、それが国としてとんでもなく愚かな選択であることが明らかであろう。確かにこれまでのように、日本が単なる米国の属州の一つとして生きるならば、数学は単なる工業技術のための下請け道具以上の使い道はさほどなく、高踏的な思索を行なう数学科などはもはやこの国にとって不要である。
しかしもしこの国が先ほどのように知的に独立する道を選ぶというならば、今ここで数学科を潰してしまうことは、その際に必要な戦力をみすみすスクラップにしてしまうに等しい愚行だということになる。
実際そうなった場合、われわれとしては自国からアンカー的存在が消えてしまった以上、それに相当する重要な支援をフランスあたりに百%近く依存せねばならなくなり、これが国全体にとってどれほど不利となるかは言うまでもない。
現実問題、やはり単なる情報工学科のレベルでは無理な支援というものがあり、この場合は安易に数学科をスクラップにすることは、どうしても今しばらく待ってもらわねばならないのである。
しかしその際、そもそも数学科内部の人々が以上のことを理解していなかったというのであっては、周囲や役人に存続の必要を納得させることなどできるはずがない。
それゆえ数学科の方々には、もし以上の論旨に細部で多少の異論があったとしても、自身がこの国にとってこれまで思って見なかった重要な役割を担っていることを認識し、大局を誤ることなく賢明に行動していただきたいと願っている。
数学史から見たその意義
もっとも今の段階でその種の未来への世界史的な影響について云々するのは、(特に今まで数学の世界しか見て来られなかった方にとっては)いささか面食らう時期尚早なものだったかもしれない。
まあそれはともかくとして最後に数学史の中でのみの観点に限定し、少なくとも最低限、解析学の流れの中で諸氏がどのような場所に立っているかをあらためて明らかにしておこう。
思えば解析学というものは、どうやらその最初と最後の二つの時期に文明世界全体を大きく揺り動かす運命を背負った存在として、この世に生まれていたように思われる。
すなわちそれが誕生して微分方程式という概念を確立した時、それは様々なテクノロジーを解放する鍵となった。しかし黄金の18世紀が終わった後の200年ほどは、ほとんどの微分方程式が解けないという現実とハーモニック・コスモス信仰の間の堂々めぐりの中で不毛な停滞を続ける。
しかしその不毛な思い込みを脱したとき、解析学はその最後にもう一度文明を大きく動かすはずである。つまりハーモニック・コスモス信仰の存在を数学的に明らかにし、縮退とコラプサー化に対抗する術を文明にもたらすことは、その意義の大きさにおいて誕生時のそれに何ら劣るものではない。
そしてその際に解析学に残された唯一最大の意義ある仕事とは、まさしく微分方程式の世界全体を俯瞰して「統一地図」を作り上げることであるのは、まず間違いない。
それゆえこの、対角化解法というツールを用いての「微分方程式の統一地図の作成」という事業は、まさしくその解析学300年の棹尾を飾るものとなるはずなのであり、諸氏はそこに参加したことを生涯誇りに思ってよい。私は確信をもって諸氏にそのように断言するものである。
2002年5月22日 長沼伸一郎