固有値理論の交通渋滞モデルへの応用
この稿では、作用マトリックス固有値理論の交通渋滞モデルへの応用に関する簡単なスケッチを行ってみることにする。従来、交通渋滞に関しては適切な数学的モデルというものがなかったが、これは少なくともその基本的な表現法として、決定版となりうる可能性をはらんでいる。
基本的な設定
さて基本的な問題設定をどうするかであるが、まあこの問題を作用マトリックスを用いて扱うとなれば、まず列ベクトルの中身として車1台1台の位置(あるいは速度)をとることになるのは、出発点として当然といえば当然のことだろう。
問題は、作用マトリックスの相互作用成分として何をとるかであるが、具体的で厳密な内容は後でゆっくり詰めていくこととして、まずこれに関する大まかな捉え方から徐々に述べていくことにする。
まず最初に、ある地域では面積に比して住人の自動車保有率が極端に低く、平均して道路上には車が常時僅か数台しか走っていないと仮定し、ここでの表現を考えてみよう。この場合当然ながら、各自動車から見て半径10m以内に別の自動車が入ってくる可能性は極めて低いことになる。
そこで、「相互の距離が10m以内にまで接近したとき、それら2台の自動車の間に一種の相互作用が発生する」ということを考えの基本にして、以後のアプローチを行なっていくことにする。
つまりこれに基づいて表現すると、先ほどのように自動車台数密度が極度に低い地域で、車同士が10m以内に接近する確率が事実上ゼロであるような状況の場合、それを表現する作用マトリックスは当然、相互作用成分が全部ゼロの形になっている。
各自動車の位置・速度など 0
0
一方都会の市街地のように、もう少し車の密度が高くて車同士の平均接触確率がある程度まで大きくなっている場合(その値などは厳密には後で詰めていくとして、今は一応簡単にdとしておく)、これを表現する作用マトリックスの相互作用成分は、そのいくつかが0でなくdになっている。
それゆえ一般に、もしある区域において車の密度が次第に高くなっていったとき、作用マトリックスは最初前者に近い状態にあったものが、次第に後者の形に移行することになる。無論この場合、その移行がスイッチ演算子によって表現されることは言うまでもない。
つまり本来、この作用マトリックスのそれぞれのdには、実は皆スイッチ演算子sが各個についていて、何らかのパラメーターによってそれらのスイッチ演算子が次々にオンになることで、各成分が0からdに変化していくわけである。
そこから得られる簡単な結果
さてこれだけのことから、すでにある程度の初歩的な結果は得られることになる。すなわちそれらスイッチ演算子が起動することで、系全体の固有値がどう変化するかということに注目すればよいわけである。
ここで一番簡単に考えて、この場合のスイッチ演算子の起動率が自動車の密度に単純に比例していると仮定しよう。つまりある区域の自動車密度が1単位大きくなれば、起動率もそれに比例して上昇する。そしてもしその結果固有値が変化して、系に指数関数的影響を与えてしまったとすれば、それは渋滞の問題と密接な関係をもってくるものと考えられる。
例えば最初の例のように車の台数や密度が非常に小さい状態にあるときは、たとえスイッチ演算子が1個起動したとしても、作用マトリックス全体では相互作用成分のほとんどがゼロであるため、その1個ぐらいがゼロでなくなったとしても固有方程式自体には影響は全く出て来ず、当然固有値も変化しない。
つまりこの場合には、系全体に指数関数的な変化は生ぜず、せいぜい単なる代数的変化にとどまるため、ここでは渋滞の加速度的成長はほとんど起こらないと考えられる。
逆に、すでに車の密度がかなり高くなっている地域では、作用マトリックスの成分もゼロでないものがかなり多くなっているため、スイッチ演算子1個の起動が固有値の指数関数の中身を直接変化させてしまう可能性が高い。
そして固有値が変化するとなれば、系全体に指数関数的な変動が起こり、結局その地域の中に車の密度が高い区域と低い区域が生まれて、それが指数関数的に拡大するということになる。実際これは渋滞の表現以外の何物でもなかろう。
車の密度・大 車の密度・小
変化はこちらに
(注・なお左側の図では、対角化された状態の固有値として全部1が並んでいるが、一般に車の密度が極端に低くて接触が全くない状態では、固有値は全部1である。この図の場合、最初の初期状態をそのようなものと想定しているため、固有値が全部1になっているのである。)
つまり以上のみから、すでに次のようなことがわかる。すなわちまず、ある区域で最初、車の密度が非常に低い状態にあったとき、そこでは多少車を増やしても、系全体の変化は代数的レベルにとどまって渋滞は発生しない。
ところが車の密度がだんだん高くなっていくと、それは固有値が変化する確率を次第に高めていくことになり、その結果、ある点を超えるや指数関数的な渋滞の成長が始まってしまうことになる。
なおこの場合、問題の性格を直観的に見えにくくしているのは、実はこの曲線自体が
a,固有値が変化する確率が次第に増大していくことを示す曲線と、
b,固有値の値そのものが変化したことによる指数関数のグラフの曲線
の複合体になっているためである。
(このうちaは、最初のうちはスイッチ演算子が1個オンになっても固有値が変化する確率がゼロなので、そのカーブは最初からしばらくはほとんど完全に横ばいの状態が続いている。それは先ほどの左の図で、固有値が全部1の状態に相当する。)
それゆえスイッチ演算子の分布状態を何らかの適当な物理量としてうまく設定すれば、それと車の密度をパラメーターとする初歩的な渋滞モデルが、それだけで出来上がってしまうということになる。
固有値そのものによる分類
さらに話を進めると、この場合、固有値が実数か虚数かということが、系の状態にこれまた大きな影響を及ぼすことになる。
もっとも、今の段階では未だ相互作用成分の中のdという量をどう定義するかを十分に詰めていないため、まだ簡単なスケッチしかできないが、例えば相手の車が半径10mの円内に入ってくる可能性が大きくなるときには、+の符号を、逆に円から出ていく可能性の場合には−の符号を、それぞれdにつけてやることにしよう。
この場合、行列成分の符号が+と−の混成であるため、固有値にも実数の場合と虚数の場合(もしくは複素数の場合)が生じることになる。つまり「物理数学・・・」の223ページに見られるように、そのことは系全体の基本的な振る舞いを決めることになり、もし固有値が全部実数ならば系の状態は指数関数の一次結合で表現され、逆にもし固有値が虚数ならば、系の状態は三角関数の一次結合で表現されることになる。
つまり前者ならば、系の内部での車の密度の偏りは時間とともに指数関数的に増大していくが、後者ならば系全体は周期的な動きを示し、しばらく放置しておけばすぐに元の状態に戻ることになるわけである。
固有値・実数 固有値・虚数 exp k1t exp ik1t exp k2t exp ik2t 車の密度の偏りは 指数関数的に増大 系の動きは周期的
要するに一言で言うならばこの場合、固有値が実数だと渋滞はどんどんひどくなるが、虚数なら(よほど三角関数の周期が長くない限りは)放っておいても渋滞はすぐに自然に解消するという理屈になる。
そのためこれが一種の判定条件となるわけで、現実の交通モデルの問題として見た場合、実数部分を大きくしないためにどうすれば良いかということに注目して、そこを中心に問題をいろいろな点から考えていけばよいことになり、いずれにせよ問題を相当に単純化できることになる。
以上、「物理数学・・・」の11章で述べた固有値理論を単純に応用しただけだが、それだけでも一応このような直観的な渋滞理論らしきものにはなるというわけである。
とにかく交通渋滞のような複雑な問題は、何しろ実社会の中に置かれているだけに、現場で全く予想もしなかった要素が突然に現われて、それ一つだけで問題全体を根底から覆してしまいやすい。
ましてそれが一日の間に大量に次々に現われてくるのが普通だとなれば、もう泥沼が津波のようになって襲ってくるようなもので、精緻な理論や解析結果などは、実験室から一歩外に出しただけでたちまちそれに呑み込まれてしまう。
そのため理論の直観化によるコストダウンということは、他の工学の問題の場合に比べても極めて重要であると考えられるのである。
コンピューター解析の落とし穴
そしてこういう問題の場合には、とかくコンピューターで力まかせに解析してしまえばそれですむではないかと安直に考えられがちだが、実はそれがとんでもない錯覚である。
これに関しては以前にもいろいろなところで何度か述べてきたが、交通渋滞の問題に限らず、一般に初期条件が一つ変わっただけで全体の振る舞いのパターンが大きく変化してしまうような問題の場合、ただコンピューターで単純に数値解析を行って、その結果を大量にプリントアウトしても、それはほとんどの場合無駄に近いのである。
なぜなら、そのように初期条件の僅かの違いで完全に異なるパターンになってしまう問題の場合、それらの無数のパターン同士の間には何の脈絡も統一性もないため、人間はそれを見せられても、ただ乱雑なグラフであるとしか認識できず、ほとんど何一つ意味のある情報をそこから引き出すことができないのである。
その上、現実には一日の間に初期条件が(それこそ秒単位で)刻々変わっていくため、そのプリントアウトに目を通している時には、もう現実の系は全く似ても似つかぬパターンに変わっている可能性が高く、現在のプリントアウトの結果をただスーパーマーケットのレジの数字よろしく、わけもわからず受け入れて単純に対応を行ってみても、そのこと自体がすでに無意味化している場合が多い。
(一般的な真理として、「紙と鉛筆で数学的に解けない問題は、よほど問題自体が静的でない限り、コンピューターを使っても結局大したことはわからない」というのは、作用マトリックス理論がわれわれに伝える重要な事実である。)
そのためむしろこういう場合、結果や解答はむしろ枝葉末節を全部切り捨ててよほど単純にデフォルメした形で表わさない限り、人間には役に立たないのだが、所詮コンピューターという機械には鋭い的確なデフォルメを行なう能力がなく、馬鹿正直に結果を生のまま吐き出しやすい。
要するにこの場合も、とにかく人間が何らかの形で渋滞成長の基本メカニズムの大略を直観的に理解していないことには、コンピューターが出してきた解析結果から意味のある情報を何も取り出すことができないのである。
その上、交通渋滞の問題には相場予測理論に似た本質的困難も有しており、それは解答の存在が知られるや、運転者たちがその解答の道に殺到して、問題の前提を根底から覆してしまいがちだという点である。
つまり正しい解答の存在が、自分自身の存在意義を崩してしまうという、堂々めぐりの構造がここにもあるわけで、あまりにも細かいことまでわかりすぎる理論が存在すると、かえって困るということになりかねない。
そういった意味では、本当は完全解析できる理論を作ろうとすることが最初からあまり意味がないとさえ言えるのであり、むしろ問題の直観的な大略の把握を可能にしておくことは、数値を解析できることよりも当面遥かに重要なのである。
解析可能性の臨界点を求める
ではそのように人間が大略を直観的に把握することの方が重要であるというならば、その際には数学的にはとりあえず何を知ることを目標にすべきだろうか。
まず何と言ってもそれは、そもそも系が解析可能な状態にあるか解析不能な状態にあるかを知ることであり、それは定量的に言えば、要するに問題が解析不能になる臨界点を求めるということである。
現実の問題として見ると、例えばそれまで全く計算にも入れていなかったような道端の立看板が、一つ倒れて道路を塞いでしまった場合、車の密度が低ければそれが系全体の渋滞状況を根底から覆すことはないが、逆に車の密度が高いと、それは全体に波及しやすい。
そしてこれは同時に解析可能性の問題とかなり密接に結び付いており、前者の状況なら問題は解析可能だが、後者の場合は大体は解析不能の状態となる。
この現象を作用マトリックスの観点から見ると、言うまでもなく前者の状態では、その種の突発的現象が車を1台止めてしまっても、相互作用成分の多くがゼロであるため系の固有値は変化しないが、後者はそうではないため、その種の突発的現象は固有値を変化させてしまいやすいという形で表現される。
そして車の密度が次第に増大して、作用マトリックス内にゼロでない相互作用成分が増えていくと、系の状態が後者になる確率が増大し、問題全体が解析不能になる確率も増大していく。
つまりその確率があるレベルに達した時が、一種の臨界点を形成することになり、それがすなわち先ほど述べた、「問題が解析不能になる臨界点」である。
そしてこの臨界点を求めることは意外に容易なのであり、これは要するにゼロ成分が多い行列の固有値の問題に過ぎない。つまりこれは、ゼロでない相互作用成分の個数が増加していくにつれて、固有値が変化する確率がどの程度増えるかの問題として扱うことができ、それは大学1年レベルの数学で簡単に求めることができる。
そしてこれは簡単に求まる割には、問題を直観的に把握するためには結構有用なのである。
交通渋滞の問題の場合、自然科学の問題と少々異なり、人間が交通規則や道路設計などを工夫することで、問題そのものをある程度望みの形に変えることができる。
それゆえ例えば交通規則の制定などを考える際に、もし解析(およびコントロール)可能な状態というものがどんなものかがあらかじめわかっていれば、それを一種のターゲット・ゾーンとして、制度やシステムをそれに合わせて設計し、なるたけその状態に近づけるということも、場合によっては不可能ではない。
そしてその際には、解析不能な臨界点がどこにあるかが大まかに知られているということが最大の数学的指針となるのは間違いないだろう。
S.Naganuma、Rep. Path Find. Phys., Vol.1, pp.11-23 (2002)